まつやま書房TOPページWeb連載TOPページ>流辺硫短編小説集④「相続」
10/10(2011.6.10更新)



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 中野からJR中央線に乗り換え八王子まで行き、特急券を買って十五分待ち、特急「かいじ」に乗り込んだ。車内はかなりの混み様で、京行は窓側の席を諦め、週刊誌を読んでいるサラリーマンの隣に腰を落ち着けた。そして、すぐに文庫本を開いた。

 一時間弱で山梨市駅に着き、京行は北口ロータリーを突っ切り駅から離れてゆく感じで進んで行った。十分程で市役所に着き、もうすっかり手馴れた説明を市民課の窓口で行い、見事父の半年分の戸籍を手に入れた。万が一他に役所へ行かなくてはならない場合に備え時間を節約する意味で普段は乗らない特急なんぞに乗って来たというのに、実にあっけなく揃ってしまったのだった。

 県名が付いている市の割には寂しい駅前に戻り、コンビニで再び塚田事務所にファックスを入れた。数分経って電話を入れると市本は外出中で塚田先生が電話に出た。

「市本から伺ってます。今回はホントすみませんねぇ」

 気さくな挨拶の後、戸籍はオッケーです、と先生直々のお墨付きをもらい、京行は安心して駅へと向かった。

 現在二時半ちょっと過ぎ。もう、時間に制約はなかった。後は夕方の七時頃、春日部の姉の家に行けばいいだけだった。

 いつもの山行のように鈍行で帰ろうと思い、乗車券だけを買い、ホームに入った。

 甲府方面からやって来た高尾行きは特急とは比べものにならない程空いていた。京行はボックスシートの窓側にゆったりと腰掛け、靴を脱いで前の席に足をのせた。

 霧雨が段々と強い雨足に変っていった。何度も乗ってさんざん見馴れた車窓だったが、京行はいつもの様に文庫本を開く気に何故かなれず、ぼんやりと外を眺めていた。

 電車の中で、京行はいつも文庫本を開く。冒険小説や旅行記がほとんどで、古本屋に寄ってはちょくちょく仕入れてくる。そして読みたいものが手に入らなかったときはお気に入りの一冊を読み返す。

 本は山に行ってないときでも山に行っているときと同じ気分にさせてくれる、京行にとっては実に大切な常備薬なのだ。

 手ぶらで出掛ける時以外、ディパックやリュックの中には数冊の本をしのばせる。その内の一冊は、もう何ページに何が載っているか覚えてしまっている程何度も読み返したお気に入りの数冊だ。アラン・ムーアヘッドの「恐るべき空白」を筆頭に、自然関係の文庫本を二十冊ほどローテーションで回していた。

 疲れて本を読むのも億劫だ、そんなときでもお気に入りの本は不思議と読めるのだった。

 しかし今は、それすらも頁を開ける気がしなかった。

 告知書も含めると、父の相続書類は全部で七通だった。

 七十七年の人生がたった七通の役所書類で済んでしまう……。そうも言えたが、逆に今回、無機的な役所の書類からさえも、七十七年生きてきた重みが伝わってきてもいた。

 少年時代養子にいったこと、初めの妻がたった二年ほどで亡くなったことなど、京行は今までまったく知らなかった。

 時代の違いもあろうが、とても好きなことを好きなようにやれた青年時代とは思えない。定年後もアルバイトをしていたので、優雅な引退生活も味わうことはなかった。

 骨ばった顔になり、いよいよもうダメだというときになっても、好きなことをやれとかすれた声で言ってくれた。おれが出来なかった分……。そんな言葉がもしかしたら隠れていたのかも知れない。そう考え、京行は少しの間目を閉じた。迫る山並みと雨で灰色の空、そんな重く暗い景色から目をそらせたかったのだ。

「母さんと仲良く、大切にな」 

 好きなことをやれに続いた聞き取りづらい父の最後の言葉。せめてそれくらいは守らないと、と京行は目を瞑りながら心に誓った。



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