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四.敗戦国日本女性の抱くマッカーサー像(4)


その四 アメリカへ留学を希望する少女

 アメリカの唱える民主主義、自由主義、そしてそれらによってもたらされたアメリカの豊かさを目の当たりに見せつけられたとき、多くの日本人、とくに若い人たちは実際にアメリカに行って学びたい、見聞を広めたいと思うようになっていました。そのうちの一例としてある少女の書いた手紙を見て見ましょう。


 「空も晴れ晴れしい美しい秋も終わりになりかけました。

 今立っていこうとする秋私たち日本は戦争に負け本当に乱れし国となって居ります この日本を良くするためにわ私達の熱心や心の美しい親切希望がなければ日本はまだまだ悪くなるでしょう そして平和国家と文化国家を作らなければなりません 湯川博士ノーベル賞を受けたように私達少年少女は習わなければなりません 戦争に負けたからといってへこたれてはいけません なまけてはいけません もしアメリカから食糧を運んでくれなかったら日本はどうなるでしょう 次第に死ななければいけなくなるでしょう 幸福を祈らなければなりません

 どんどん外国に出て行って勉強や研究をせねばなりません私の家は学校にも行けないほど苦しい家です。けれどもこの家をたてなおすならば勉強が第一です 

 私渡米してアメリカで勉強して日本え立派な人となって国の役に立つような人になってこの世をさりたいと思ひます アメリカえ行って手をつなぎあってむつまじく学びたいと思ひます どうか渡米さしてください 御願いします

 はずかしいながらも私の家貧乏で本当に苦しいくらしをしています でもえらい人になるためにわ、たをれてはなりません 

 まだまだ私の思っている希望わありますが

  これでおしまいにしてをきます 英語をよく勉強して!

  私は年は十三歳、名前 島田梅香 左様奈良
      梅より
ダグラスマッカーサー元帥様


 このたどたどしくもひたむきな少女の向学心には心を打たれます。この手紙の消印ははっきり読み取れないが、一九四九(昭和二四)年十二月七日に見えるそうです。昭和二四年、湯川博士のノーベル賞受賞は敗戦と貧困に打ちひしがれていた日本人の心をいっぺんに明るくし、希望を与えました。

 終戦後復員して帰郷してから一年半経った昭和二二年三月、私は上京しました。食と職を求めて東京のあちこちをさまよい、不浪者のような生活を送っていましたが向学心は燃えていたようです。昭和二四年四月、私は日本大学夜間部に入学しました。

 若者たちにとって平和と自由があり、希望に向かって行動していれば、どのような困難、貧困にも耐えられるものですね。




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