まつやま書房TOPページWeb連載TOPページ>人生ぶらぶら散策記(沖田数馬)第一話
(2010.12.10更新)



いま、秩父にいます


 小中学生の頃は浦和市(現さいたま市桜区)にいた。キャンプといえば決まって長瀞で、熊谷から秩父鉄道に乗ったのをよく覚えている。

 実家は千葉県だ。大学進学と同時に神奈川での一人暮らしが始まった。仕事は東京都にある都市計画の会社に就職したのだが、すぐに辞めてしまい、また神奈川へ舞い戻った。それからおよそ12年間、神奈川県のワンルームの生活だった。


 いま私のアパートの2階から武甲山が見える。私が望んだとおり秩父に居る。隣の一軒屋に住んでいるおばあちゃんは訝しげだ。

 アパートは4世帯が入居できるようになっていて、私の下の住人は転居して、空き室だ。2階のもう1戸の住人は朝五時半に出て、夜十時半に帰ってくるという毎日。東京まで通勤しているそうだ。その下の住人はよく分からない。週末だけ帰ってくるという、「隣組」からすれば、変わり者の住まいらしい。

 もっとも「隣組」という言葉自体、秩父へ来てからおののいた。何しろ歴史の教科書で出てきたものを思い出したからだ。


 2階から眺める秩父の夕暮れはとても美しい。もっとも秩父へ移住したそもそもの原因は秩父事件を映画にした「草の乱」だ。その映像が焼きついてしまった。それから秩父事件の史跡を尋ねたり、エキストラで出演した人々との交流が始まった。白鉢巻に白襷の秩父困民党のその姿は、世直しのヒーローに見えた。エキストラの方々と交流しているうちに、秩父に住みたいと強く思い始めてしまった。

 そう思い始めたら止まらない。これが私の性格だ。両親は「自分の人生なんだから好きにやりなさい」としぶしぶ承諾してくれた。しかも長男である。

 ハローワークのインターネットサービスで、秩父の職場を探し始めた。しかし募集している企業は限られてくる。ようやく長瀞のある会社に面接までこぎつけたが、不採用となった。

 こうなったら「自分で仕事を持っていこう」と、宗教用具洗浄サービスのフランチャイズを始めることにした。秩父ならどの家庭でも仏壇はあると聞いた。私は秩父が「金鉱脈」のように思えてきた。



続く