我が恋は 佐藤 孝 警句戯作文集
佐藤 孝 著
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本書の目次*青文字の表題を“ちょっと見!”できます。 


虫の巻
鳥の巻
動物の巻
植物の巻
子供の巻
人間の巻
仏の巻
自注

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 我が家にオス猫が一匹居る。年は分らない(六、七歳のような気がするのだが)。最近白髭が一本抜け落ちたころを見ると年寄りなのか。猫の髭が抜け落ちることと猫の年齢は関係があるのだろうか。髭が少ないほど年寄りなのだろうか。髭が抜け落ちることは老化現象なのだろうか。

 座布団の上に寝そべっている飼猫にふと目をやると、向きを変えてこちらに背中を向けた。髭が抜け落ちようが、年寄りだろうが、老化現象だろうが、そんなことは閑人の閑事で、彼は自分と自分の世界に満足しているように見える。実際満足しているのである。「無事是れ貴人」である猫の前では人間は誠にみじめな生活を送っていると云わねばならない。

 それはとにかくとして、それにしても猫とは云え実によく眠る猫である。姿を見掛ける所、いつも眠っている。別に飼猫の睡眠時間の調査をした訳ではないから確かなことは云えないが、間違いなく二十時間以上眠っている、或いは寝ている。寝ることも眠ることに入れば、それ以上眠っているようだ。ひょっとして、ほぼ二十四時間、丸一日眠っているのではないかとあやしむ。何も好き好んで朝昼晩舟を漕いでいる訳なのではなかろう。これにはそれなりの訳がない訳ではない。

 実は、これは突然入院してしまった隣りの一人暮らしの老婆の飼猫で、筆者が飼う羽目になり、我が飼猫になるまでにはすでに男でありながら男ではなくなっていた訳なのだが、よく眠るのはその辺の事が原因しているのか。

 時々、「眠ってばかりいてしょうがねえなあ」と窘めても、ただ尻尾をふるのみで、答えず。「こんな男にだれがした」などと未練がましいことは何一つ云わない。天を怨まず、人を咎めず。己が運命を達観しているように見えるのは、オスだからであろうか。これがメスだったら「こんな女にだれがしたのよ」としょっ中恨みつらみを並べ立てられるような気がするのだが。

 花を見、鳥の声を聞く。しかし本当に花を見、鳥の声を聞く人はまれである。無限の世界に触れ得る人はまれだからである。人間は花を見、鳥の声を聞き、月を眺め、虫の音に耳をすまし、物を思い、考え、感じ、そして語る。花も鳥も猫も犬も物を思い、考え、感じ、そして語る。人間が彼らを見、彼らの声を聞き、彼らに語り掛けるとき、彼らも人間に語る。もし人間が彼らに語り掛け、彼らと語り合わなければ、語るということはないのである。語るという事は成立しないのである。人間が彼らに語り、彼らも語るとき、初めて人間に語ることがあると云えるのである。これは決して擬人化とか感情移入といったものではない。事実の経験、即ち「経験事実」である。犬も猫も杓子も語るという事は実(現実)である。

 芭蕉が薺を見、薺も芭蕉を見る。芭蕉が薺を見ることはとにかく、薺が芭蕉を見ることが理解できない人は、物を二元的・対象的に見ているからである。従って花を見るとき、自分と花は空間を異にしていると考える。このことはそこに時間の観念を入れるということに外ならない。空間は時間である。そして時間は分別である、分別は時間である。芭蕉が薺を見るだけではなく、薺も芭蕉を見るときそこに少しの時間性を入れていないということである。花を見るとき時間性を入れないとき即ち分別を離れるときそこに安心がある。その安心のところに「美」があるのである。

 昨今は川柳ブームだと聞く。街の本屋で『サラリーマン川柳』だとか、『遺言川柳』といった本をよく見掛ける。川柳子は自分を笑い、家庭を笑い、会社を笑い、世間を笑い、よく笑うようだ。笑いの対象が何であれ笑うということは、自分を笑うことでも、人を笑うことでも、人を笑わせることでもなく、何を措いても自分が笑うことでなければならない。この自分が笑うということはどういうことなのだろうか。天が笑い、地が笑うということに外ならない。天が笑い、地が笑って初めて自分が笑ったと云えるのである。自分が笑うことと天地が笑うことは一つである。天地が笑わなければいかに笑ったと云えど本当に笑ったとは云えないのである。つまりそれは純粋な笑いではないのである。

 天上天下、笑うに堪えたり、悲しむに堪えたり、と。悲劇を書いたつもりが喜劇であったり、喜劇を書いたつもりが悲劇であったり、何事も倒の世の中、悲しむべきか笑うべきか。人を笑わせるつもりが、余りの陳腐月並み凡庸な作品に呆れ返られ笑われてしまっては笑うに笑えず、泣くに泣けない。我が戯作文如きも余りの下らなさ、馬鹿馬鹿しさ加減に驚き呆れられ笑われてしまうのが落ちだろう。

 未だ到らざれば到るを須つべし、到れば人をして笑わしめる、と。未到の者は決して「笑う」ことはできないのである。到り得て初めて「笑う」ことができるのである。従って到るを待つ外はないのである。この時が悲劇が喜劇に一転する時節である。そこで一度笑えば、天が笑い、地が笑うだろう。いな、天柱が析け、地軸が摧けるだろう。

 



 動物の巻

  造物主に感謝

動物はいいねえ、何の悩みもなくってさ。
じゃ、犬や猫になってみる?
蛇に呑まれるのはイヤだけど、でも蛇になりたくないです(蛙)
御同感です(鼠)


  ノラ猫って頭いい

大寒や呉越同舟の箱の中

  剣道の極意

相討ちより相抜けがよけれ箱の猫

  猫と眠り

よくぞ眠ることがあったぞと猫夢現

  猫の眠り

眠りではない眠る楽しみなりと眠り猫

  好きになるだけではまだまだ

子のたまわく「眠りを好む猫は眠りを楽しむ猫に如かず」

  そうだったのか

ブーはブータローの略称なりとブータローの元の飼主の老婆が教え

  愛称じゃなかったのか

ブーだろうがブータローだろうが眠る方がええ

  冗談じゃない

ひっぱるな飾り物じゃないんだ猫の尻尾

  お仕事

柱畳爪を研ぎながら遊んでいる訳じゃないんだ(気分いい)

  食うために生きている訳ではない

たまにはうまいものを食わせろと云わぬ猫(昔はいた)

  無一物中無尽蔵

倉庫の中の山のようなキャットフードも無いと同じ
一皿の中に全宇宙の食事あり
「食う時は食うことに専念すればいんじゃないの」


 自注(一部)

相抜け 剣豪針ヶ谷夕雲(一五九三文禄  二年―一六六二寛文  二年)が最高の境地とした剣の極意。云わく、「両方立向かって平気にて相争うものなきが相抜けにて、争うものあれば相打ちなり」。弟子の小田切一雲(一六三〇{寛永七年}―一七〇六{宝永三年})云わく、「聖と聖との出会いならばいつも相抜け也」。鈴木大拙(注6参照)云う、「昔、剣の道に『相抜け』ということがあった。『相打ち』ではなく、両者が共に生きる『相抜け』である。双方が剣の道に達した者ならば相手を殺すことなく、たがいに助け、たがいに生きる。これが本当の剣の精神である」

猫に「スプレー」ということがある。自分のなわばりのしるしとしてにおいをつけるこのスプレーという行動は、その一方猫同士の情報交換の役割りを果たしているのである。例えば最初に或る場所に一匹の猫がスプレーをしたとする。そこを通った猫はにおいを嗅いだだけで、その猫は誰れなのか、何時頃通ったのか、そしてどんな精神状態でひっかけたのか果ては今の体調まですぐに分ってしまうらしい。勿論二番目の猫もスプレーをして行く。三番目に通り掛かった猫もすぐににおいを嗅ぎわけ、二匹のライバルの情報が立ち所に頭にインプットされるという訳である。

猫というのはこのように「スプレー」による情報交換によって「時差出勤」を心掛け、お気に入りの場所を何匹かでなわばりにしているのである。つとめてかち合わないようにして無益な争いを避け、共に生きる、共生する。これこそ猫の相抜けである。どうやら猫というのは殺人刀を活人剣に使う道を体得している動物らしい。

大拙は相抜けをmutualescapeと訳したがこのエスケープこそ、猫の相抜けを表現する言葉としてぴったりなのではなかろうか。三十六計逃げるに如かずではなく、そういう意気地のない猫もいるようだが(本文39ページを見られたし)、避けるに如かず、であろう。

傍線部分は公開時に追加した部分です。
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(続きは本書で)

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