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2005年2月9日(水)

橋川文三先生の今日性

 橋川文三氏を「先生」と呼ぶのは、明治大学にいた学生時代、大学二年で「日本政治史」を教わり、さらに三年四年に橋川ゼミに入り、「日本政治史思想史」を直接教えていただいたからである。

 しかし、不肖の弟子というところまでもいかない弟子であるが、弟子は弟子である。恩師について語る人、橋川先生の後、教鞭をとられた後藤総一郎さん(ゼミ第2期生)も亡くなり、橋川先生の実像を語られる方が少なくなった。また、こちらも橋川先生が亡くなった年(1983年12月17日、享年61歳11ヶ月)に近くなってきたことにもよる。小生ゼミ第10期生。昭和45年(1970)3月卒業

 亡くなられて21年が過ぎ、当時接した編集者も高齢化している。橋川先生の文章は残るであろうが、エピソード、実像を語れる人は年々少なくなっていく。そこで、当社のホームページに「橋川文三コーナー」を設け、橋川先生の今日性を検証していきたい。

 我が国に思想家という人物がいなくなって、少なくとも、紙面・雑誌に登場することが少なくなって何年が経ったであろうか。竹内好など、いかにも思想家という人物は減ってしまった。

 大学三年の信州・菅平のゼミでは、ゼミ員が明治維新から太平洋戦争までの左翼から右翼の思想を担当し、発表した。もちろん中味は大したことがなかったのは言うまでもないが、明治維新の討幕派の思想、明治中期の国家主義の思想、後期の荒畑寒村などの思想、大正時代の国家社会主義の思想、昭和初期の昭和維新思想、さらに東亜思想などを発表した。3泊4日か4泊5日であったが、大学三年まで、中学高校までの復習かよ、という授業が多かっただけに、極めて刺激的であり、勉強の浅さ、恥ずかしさを痛感した。

 それはそれとして、明治維新から敗戦までの思想の流れを、きれいに整理されてあり、時代、思想を見る基本的視点を教わると共に、かなりの練度で学習したため、その読書、話しあいなど、小生のものを見つめる基本となっている。

 ちなみに大学二年の一年間も、明治維新を学んでいる。もっとも大学三年の後期あたりから、ベトナム戦争反対運動、学生運動が活発化し、小生も10.21の「国際反戦デー」では防衛庁につっこみ、捕まり、就職後も裁判に通う(ただしノンセクトノンポリ、懐かしい言葉である)と言うことに遭遇している。それでも大学四年では千葉に合宿に行っているのだから、先生の「日本政治思想史」から遠ざかっていたわけではなく、明治大学の何号館の地下のゼミ室で先生の慧眼に接していたのである。
先生は、思想を政治という視点からだけではなく、文学という視点からも追求していたと言える。

 これは先生の初めて注目された本が「日本浪漫派批判序説」であったからと言うだけではなく、先生の政治思想、時代の思想を見るにあたり、基層をみていくに文学が重要と言うことからであったと考えられる。
 現在、日本は敗戦後60年が過ぎ、大きな変革期にあると言える。橋川先生のことを不肖の弟子以下の人間が少しづつ見ていきたい。
2005年2月4日(金)

イラク戦争、アメリカ兵の現実


 夜早く寝ると当然朝早く目覚める。

 朝3時頃である。時々、すぐれたドキュメント番組をしていたり、マイナーなギリシャやインドの映画をやっていたり(多くはアメリカ映画)、日本では見られないアメリカのニュースをしていたりしており、稀に「得したなあ」と感じることがある。

 近日のニュースで、イラクに進出した米軍軍事車両の防御が弱く、ベニヤや撃破したイラク軍戦車の鉄板をはがして使用しているとのことを報道していた。これでイラクのミサイルや爆弾を防げるわけがない。

 また、携帯電話や夜間用ゴーグルなど、アメリカのスーパーで売っているものも装備されていないので、家族が買って、それをイラクに行っている子どもや兄弟に送っているとのことも放映していた。

 イラク米軍の司令官に軍事車両の防備の弱さについて「これではアメリカ兵に死ねと言っているのと違いますか」と質問する。司令官は、口ごもり、沈黙し「おっしゃるとおりです。困っています。私だって悩んでいますが、どうしようもないのです」と答え、「何故なら予算がないのです」と言う。

質 問は続き、「予算と言ったって大した額ではないのに、なぜ予算がつかないのですか、兵士の生命がかかっているのですよ」と追求する。司令官は苦渋に満ちた顔で「私に言われても困るのです。確かに兵隊の生命がかかっています。兵士はベニヤや戦車の鉄板を使って苦心しています」と答える。


 誰もが「おいおいそれはないだろう」と思う。なぜ予算がつかないか。その理由は、アメリカは戦争をしていないのである。つまり平時予算で、戦時予算でないからである。アメリカは今、平時なのである。

 戦争をしていないから、緊急の防御予算がつかないと言うことである。

 アメリカ政府、アメリカの国会はイラクと戦争をしていないのである。ここまで来て、どこかの国も同じようなことをしたことがあったよな、どこだっけ、と考えて「ああ、戦前の日本だ」。ノモンハン事件、満州事変、シナ事変(正しくは日中戦争、支那事変の「支那」は蔑視的に扱われていたが、当時そう言っていた歴史的名称なので、シナ事変の名前を使用する。中国人、在日中国人の方で不愉快になられた方には申し訳ない) と「日シナ戦争」と、国民に言わず、ずーとちょっとした事件よ、と言う。そして太平洋戦争に突入する。

 イラク首都へ急速に進出できたことをおかしいと思わず、短期に終結すると思ったため、そこで平時なのである。こんなに長引くとは思っていなかったのである。

 アフガニスタンへの攻撃で、真っ正面から防備する失敗を考えれば、誰もが考えるのが、現存軍事力を温存し、兵士を民衆の中に入れていくことである。この作戦と、圧政を嫌い、自由を望む民衆との軋轢で、どちらの力が強いかである。

 先のイラクの選挙がかなり活発であったことを考えれば、この二つの流れは、いよいよどちらに向かうか、正念場に来ている。

2005年1月28日(金)

荒川流域、自然体験ツーリング、古民家、
市民農園、打木村治著の児童文学『天の園』コーナーを新設します


 それぞれが微妙につながっていますが、5つのコーナーを新設し、その関連情報をお知らせいたします。

@荒川流域は、小生が関連していた特定非営利活動法人荒川流域ネットワークの関係から荒川の源流から東京湾まで見てきたお陰で、現在でも上中下流交流、荒川情報の発信を実現していきたいと考えているからです。また、首都圏の中心を流れる荒川流域は首都圏の生命線であり、もっと多くの人に荒川、そしてその支流を知って訪ねて(安全に留意して)欲しいからです。 荒川のあちこち、さまざまなイベント、今後の河川のあるべき姿などを情報発信していきます。

A自然体験ツーリングはその実践です。都幾川(荒川の支流)で、小生が参加している特定非営利活動法人まちづくり楽会(石川邦夫代表理事)で、4月から11月ゴミ拾いをしていますが、それと共に、都幾川・比企丘陵を対象に1泊2日型のツーリングを実施しております。安全対策が何よりも大切ですので、その面の配慮と、講師、フィールド、食事、集合場所、宿泊、懇親会と、日帰りと異なり、多くのことをクリアーしなければなりません。そのため、2001年はホントに身内で、そして2003年度から2年間試行錯誤を経て来ました。また大滝村への源流体験など、関連団体と一緒に実施してきました。それらのことを情報発信していきます。  

B古民家は、このコーナーで紹介しているとおりで、今年もまちづくり楽会で古民家市民農園エコツーリングを活発に実施します。

C市民農園は、東松山の東京農大三高の前に1反5畝をまちづくり楽会が借り、1月29日(土)にきらめき士民大学で土起こし式を開催し、春4月に開園式を開催する計画です。
関心のある方は、80坪を年5千円(指導料など含む)でお貸ししますので、お申し込み下さい。東松山は関越高速で東京から近いですので、ぜひご利用下さい。

D『天の園』は、都幾川、東松山を描いた児童文学です。小学校の1年から6年までを描き6部からなっています。
 著者は、唐子地区に育ち、子どもを育てるのに大切なことは「母の愛、美しい風景、ほどほどの貧乏」と喝破しています。 その児童文学が、今年5月、本格的アニメとなります。題名は「雲の大河」です。3部作の第一部で、小学校への入学式に始まり、小学校入学以前のことを中心に、「フランダースの犬」などの監督、黒田昌郎さんが制作します。

 我々は、東松山で大いに盛り上がらなければ、との決意で、「アニメ天の園上映委員会」を昨年9月に結成し、この1月23日(日)に「アニメ映画化記念トーク&交流会」を開催しました。
監督の黒田さんに来ていただき、その進捗状況、なぜ取り組んだか、アニメ関係者は豊かになれない、など楽しく語っていただきました。参加者は予想より遙かに多い150名でした。終了後、保(たもつ)少年が入学式の時、母かつらが作ってくれたご馳走を皆で食べ、大変美味しかったです。
きんぴら、赤飯、煮干し入りみそ汁(これは豚汁に変更)、保少年の大好物、コンニャクと油揚げの煮物などなど。

2005年1月25日(木)

市民活動の転機


 日本を代表する野村証券を、山一証券と勘違いし、「野村証券、北海道拓殖銀行から続くこと」の題名で掲載してしましました。お詫びして訂正させていただきます。早速、前回の題名を修正させていただきました。

 さて、関東は寒い日が続いておりますが、事務所(住居兼)東側の畑には梅が花をつけ始めました。1月22日(土)でした。


 市民活動(NPO活動)は、今年大きな変革の年となるものと思われます。二つの流れが顕著になると考えられます。一つは、コミュニティビジネスを取り入れた日常的活動をなす市民活動、もう一つは、ボランティア的(無償)な月に何回かの活動をなす市民活動の二種類です。
 この二つは、専従職員の有無、事務所の有無などを含め、あるとないとではその市民活動の実力に大いなる差が生じてしまいます。別の角度から見れば「無理しているのじゃない、あの会は」と言われるでしょうが、非常にビジネス的活動をする市民団体が多くなり、公共建物の運営管理、行政との協働事業を始め、市民団体が事業を実施し、雇用の一角を形成することになっていくでしょう。
 また政策提案型の市民団体が、東京都だけでなく、各地で活動実践していくことになるでしょう。街おこし、街づくりがそこにすむ人たちから提案されて、施策になっていくわけです。自分たちの街は自分たちで決めて実践していこうと言うわけです。

 これに応じ、市民バンクも本格的になっていくものと考えられます。
 ようやく、市民活動は「ボランティア(無償)でなければいけない」という声は少なくなってきました。
 特にここ1〜2年、若い人たちが事業を立ち上げ始めて来ました。また建築家、税理士、環境関係などの専門家集団もNPO法人を立ち上げてきています。これまでの先駆的市民活動と言われたのが、5年〜10年経てば陳腐化している現状です。時代は底から流動化しております。市民活動も同じです。役割が終わった市民団体は、次第に活動を縮小してきています。

 これまで、各市民団体の活動、実力が弱かったために、ネットワーク的市民活動がここ10年活発化してきましたが、ネットワークが有機的つながり、ITを駆使した情報網の整備、発信がないところは不活発になり、その役目を終えようとしています。

 その意味でここ一年、市民活動はその本格化へ向かう年といえましょう。

2004年12月20日(月)

山一証券、北海道拓殖銀行から続くこと

 1998年の二つのビッグ会社の破産以来、日本を代表する企業の大揺れが今だ続いている。銀行、保険業界はどの会社がどの新会社になったのか分からないくらいである。小社などの零細企業はいつも低空飛行であるからなんてことないが。
 2004年は大企業の不祥事が続いている。三菱自動車、三菱重工、カネボウ、ダイエー、UFJ銀行、西武鉄道グループ、NHK、三井物産などなど。官庁では、社会保険庁なども。
 19世紀の哲学者、マルクスによると「下部構造は上部構造を規定する」という言葉があるが、それによるとどんな下部構造の変化があったのであろうか。


 今年は台風も多く、甚大な被害を受けた。良いところと言えば、おかげで河川は、昭和30年代の河川の水質、河川底質に戻った。戻ったものの、魚が夕焼けに飛び跳ねていないのが残念である。また、新潟中越地震も発生し、まさに災害の年でもあった。
 ここ数年の経済的変動は、なお数年続くであろう。しかし、人の動きの底部で変化したといえる証左は、1997年の河川法の改正(河川整備における市民参加、河川環境に配慮すること)、1998年の特定非営利活動促進法(NPO法人)のスタート、1999年の介護保険法の施行などで、これまで考えられないような動きが発生してきている。


 そしてこの動きは止められず、より活発化することはあっても止まらない。小生、1985年あたりから市民活動に参加していて、なぜ夢中になってかねにならないことに動かねばならないかと不思議に思ってきたが、それは時代の要請であったと言える。それが河川法改正、NPO法の施行、介護保険法につながっていった、といえば大げさであるが、小生のみの志向でなく、皆がそれを志向し、それが大きくなった、といえば許されるであろうか。
 環境保全、なんて1980年代に話していたら、「あいつはアカだ」と言われていたのだから。もっともこのアカも死語となろうとしている。もし差別的に思う方がいたらお許し下さい。


 さて、次の変化は何なのだろうか。大きなこと、これまでできなかったことは、循環型社会への実なる動きである。少しずつ進めていきたい。 

2004年12月7日(火)

 縄文以来の伝統

 小生が関与するNPO法人まちづくり楽会(石川邦夫代表理事)が12月4日(土)に「古民家移築活用シンポジウム」を東松山市のきらめき市民大学で開催しました。

 参加者は一般参加者、講師スタッフを入れても約60名でいまいちでしたが、スタッフが昨年に続きましてですので、 大分慣れて熱心に参加していただきました。 通算では、1998年10月に「東松山 公園から見るまちづくりシンポ」、2000年3月に「都幾川から街おこしー自然公園シンポジウム」、2003年11月「環境最前線を訪ねるー ITを使ったシンポジウム」と実施してきて4回目となります。
 ほぼ毎月一回開催する公開例会は、80回ですからこれも一つの大きな実績です。このシンポの目的は既に述べていますので、ここでは記しませんが、新潟巻町の古民家、小川町の吉田家住宅などの運営管理をその当事者からお聞きして大変参考になると共に、大いに刺激を受けました。特に巻町の斉藤文夫さんの「地域、行政を巻き込んで。一緒に参加してもらわないと駄目」という発言は、ともすれば市民団体が単独で行動しがちなだけに、肝に銘じていきたいと存じます。幸い、古民家を移築したい唐子地区の皆様も意欲的ですので、二人三脚的に動いていければと思います。

 また、斎藤さんは「古民家の囲炉裏の火がポイント。きっと縄文時代以来の文化が囲炉裏の火に存在している」とも語り、今それが無くなっていることを危惧されています。現代、古民家が静かにブームになっており、雑誌などで特集が組まれ、女性雑誌にも訪問記事が掲載されています。それは、私たちの心の奥に残っている、縦穴住居で、親子、仲間で囲った火の面影、楽しい食事の思い出や雑談を追っているからでしょう。



 武蔵武士の研究


 鎌倉時代を樹立した板東武士、その中でも中心的に活躍した武蔵武士、その事跡はしっかり残っており、研究しつくされているものと思われていたが、それほどでもないなと、最近思われてきた。
 これは、武蔵武士の地元では、ご本人一族が現地(本貫地)から東北〜九州まで行ってしまい、資料が無くなってしまっているので、時代と共に忘れ去られてしまって来ている。また、行った先では、資料が残り、その一族では言い伝えられようが、それは支配者の歴史であり、「武蔵武士の子孫」との話は残るが、武藏の地との連動的なつながりができていない、ことによる。
 つまり、武蔵武士、武蔵武士と言い張るのは、この武蔵(埼玉、東京、神奈川)の地の研究者や郷土研究者であるが、行った先では、一種の侵略者であるため、武蔵の地と赴任地との歴史のダイナミックさが無かったのである。

 これを打破したのが、小社の成迫政則著『武蔵武士 上・下』である。著者は、自分のふるさと(大分県)の自宅に「ごりんさん」という石塔があるのをずーと気にかかっており、そこから東北、鹿児島まで調査に出向いたのである。
 このホームページを見た方、武藏武士の赴任地、誰がどこへ来たかなど、わかりましたら教えてください。最近、とてもすばらしい発見があった。それはその調査した戸井田文男さんに記してもらうことにしたいが、その戸井田さんがいみじくも言った「武蔵武士の研究は始まったということですよ」に尽きると言えよう。


2004年11月27日(土)

「古民家通信」の発行

 来年3月頃、古民家の情報、運営・管理の仕方、古民家の文化などを入れた16頁の冊子程度の雑誌(季刊誌)を出そうかと考えています。16頁は、ごく薄いが、原稿をむやみに入れて、次第に雑誌が厚くなってしまった、苦い経験があるから、頁数を決めることにしました。16頁程度なら経費も少なく、採算を深く気にせず、発刊できる、という面もあります。

 今年は、@富士見市の難波田城址公園、A平山家(江南町)吉田家(小川町)都幾川食事どころ(旧岩田家)、B大内宿(福島県)巻町庄屋の家佐藤家(新潟県)、C内田家(秩父市)黒澤家(群馬県上野村)、D桶川べに花ふるさと館の5回、古民家を廻り、その活用事例などを勉強させていただきました。

 この古民家、都幾川沿川の東松山・駒形公園(市民プールのあるところ)に移築したいと希望し、自治体や議員さんに要望してきました。
 さらに多くの方に理解いただくために、12月4日(土)午後1時より、東松山市きらめき市民大学(かつての埼玉県東松山青年の家)において「古民家活用事例シンポジウム」を開催いたします。

 先進地の活用事例を二例(巻町庄屋の家佐藤家住宅、小川町吉田家住宅)を話していただいた後、シンポに移り、5人のパネラーに活動報告をしていただき、なぜ古民家が必要か、何に使うのか、どのような地なのか(都幾川「天の園」自然公園構想)、どうしたら管理できるのか、などを語り合っていただきます。
 さて雑誌にもどりますが、内容をもう少ししゃべりますと、古民家視察訪問、古民家の文化、スローライフの生き方、エコツーリング(グリーンツーリング)、古民家情報などなどです。


 公表しましたらやらざるを得ないので、早めに公表しておきます。
 

2004年11月23日(火)

 続箭弓神社のご利益

 小生がホームページで箭弓神社内にある宇迦之魂(うかのみたま)神社のことを記したわけではないと思うが、それを記してからしばらくしたら、その宇迦之魂神社の左右に願いことを書いてください、という紙が貼られた。十日ほど前である。今日もお参りしたら、一枚は技術、一枚は芸能の向上にお願いするというもので、もちろん試験が合格しますようには定番であるが、テニスがうまくいきますようにとか、大工仕事が上達しますようにとか、製図がうまくなるようにとかさまざま。

 結構若い人が多いようで、もうほとんど埋まってしまっており、この手の願い事は、いつの時代も人気があると感じた次第。その願い事の紙は、神社の方が本格的に祈ってくださるとのことで、御利益はあるのでは。今、密かなブームになっているようである。
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